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第二次世界大戦と満州


大変興味があります。
満州のまじめな話。実は知らないことばっかりでした

1941年12月8日の真珠湾攻撃後に、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告したものの、日本軍がイギリス軍やアメリカ軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソビエト連邦の間とは戦闘状態にならなかったため平静が続いた。

しかし、日本の敗戦の色の濃くなった1944年に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にアメリカ軍のボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満州飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。

1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本はたった1国で中華民国、イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めを迎え、太平洋戦線では前年のフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題となった。


崩壊
そんな中ソビエト連邦はヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して、8月8日に日本に宣戦布告し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイのゾルゲから得ていた関東軍特殊演習の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍は満州国に対しても西の外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。それに対して満州国を防衛する関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持たないこと、また関東軍自体の戦闘力の水準の低さ、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった。

そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の軍属(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車で脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述)をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満州領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年12月27日 20:37に投稿されたエントリーのページです。

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